翌日。彼は昨日の事を気にしながらも、香水塔の制作に励みます。
そして、そこへ彼女がまた現れました。
昨日は何か悪い事をしてしまった様な罪悪感を感じていた彼は、怒鳴って悪かったと彼女に頭を下げます。
しかし、彼女からはなんの返答もありません。
「この絵本が欲しかったのかい? 良かったらプレゼントするよ」
彼は昨日の絵本を彼女に差し出します。
しかし、彼女は無言のままです。
仕方なく彼女の足元に絵本を置いて、仕事に戻る事にしました。
しばらくは背後の彼女が気になっていましたが、たまに振り返ると、ただ突っ立ったまま足元の絵本を見つめているだけです。
邪魔しないならいいか。
彼は彼女の事を気にせず仕事に没頭しました。
何時間か経った頃、彼女の保護者が現れ、彼に頭を下げつつ彼女を連れて行きました。
そんな日々が何日も何日も過ぎて行きました。
最初は頻繁に連れ戻しに来ていた保護者も、迎えに来なくなりました。
しかし、彼はもう特に気にならなくなりました。
彼女が戦災孤児で、両親を亡くし、施設に引き取られ、凄惨な出来事から心を喪っていた事も…。
かわいそうとは思うが、自分を救うことでこっちは手一杯なんだ。
彼にはこのチャンスを逃すことなど出来ません。
彼女が邪魔しないのであれば、特に気にしなくていいだろう。
だから、彼は気にしなかったのです。
幾日もの時間が流れ、彼女は絵本を見つめる事から、座って彼の作業を見つめるようになっていました。
目に暗闇を抱いたまま、言葉も無く見つめていました。
ある時、進めていた作業の途中で絵柄が必要となり、彼はあの絵本を開きました。
そうすると、開いた絵本からオルゴールの音色が辺りに響きました。
彼はその時見たのです。
目の暗闇が音に切り払われ、彼女がふわりと微笑んだのを。
一瞬の事でした。しかし、彼は確かに見たのです。
彼女の微笑みを。
その日から彼女の微笑みが彼の目に焼きついてしまい、作業の間もその微笑みが忘れられません。
どうしても気になって、何度も絵本を開いてみましたが、彼女は微笑んではくれません。
そのため、香水塔の制作が手に付かず作業は遅れていくばかりです。
彼はどうしてこんなにも気になるのだろうと考えました。
来る日も来る日も考え続け、ある日突然に思い出します。
深く深く記憶の底に沈んだ記憶…。
それは、彼が芸術家の道を選んだその日の事です。
彼には幼馴染の大好きな女の子がいました。
その女の子とはとても明るく笑う少女でした。
特に彼が描く絵や木彫りの彫刻を見ては優しく微笑んでくれました。
彼は、その少女の笑っている顔を見ているだけで、とても幸せになれました。
だから彼は彼女の微笑みが見たくてたくさんの絵を書きました。
しかしある日、彼女は知らない大人に遠くに連れて行かれることになりました。
彼は彼女と共に逃げだそうとしました。
しかし、彼女はにっこり笑ってそれを拒み、最後の別離の瞬間までその微笑みを絶やしませんでした。
彼女は彼の好意も、そして自分が行かなければ、大切な幼い弟や妹が餓えてしまう事も知っていたのです。
彼は闇雲にお金を貯めます。
大好きな彼女を取り戻すために。
金山での過酷な労働などをこなし、彼は大金を手にする事が出来ました。
数年の月日を掛けて貯めたお金を持って、彼女を取り戻すために会いに行きます。
しかし、彼が会いに訪れた時、彼女は不治の病に倒れ、命の灯が吹き消えようとしていました。
彼は泣きながら、彼女の命を救おうと持っていたお金を費やして名医に診せたり、高価な薬を取り寄せましたが、
彼女の病を治す事は出来ませんでした。
死の床に着いた彼女は微笑みながら、一つだけ彼にお願いをしました。
「前みたいに、何か作ってくれない?」
彼は何年も手にしていなかった筆を握り、絵を描き始めます。
そして、故郷の野原を駆ける少女の絵を描き上げます。
「ごめん。前みたいに上手に描けない…」
それを手に彼女は優しくふわりと微笑みました。
「ううん。ありがとう。あなたの作るものが大好きよ。とっても大好き。もっと、もっと見たかったけどごめんね…」
彼女はそう言って息を引き取りました。
最後まで微笑みながら…。
彼はその後、彼女に最高の作品を捧げようと、芸術の道を歩き始めます。
しかし、いつの日にか生活に追われ、成功する事が全てになっていったのです。
それと共に彼女の微笑みを思い出す事無くなっていったのでした。
それが今、鮮やかに蘇ったのでした。
彼は自分の作っている香水塔を見ました。
そこにあるのは、虚栄心に満ちた彼のためだけの作品でした。
彼は、たまらずそれを打ち壊します。
そして、立ち尽くす彼女にお礼を言います。
「ありがとう。ありがとう…」
その日から彼は今までのものと違った香水塔を作り始めました。
幼馴染の彼女が微笑んでくれるそんなものを脳裏に描いて。
その様子を見ていた彼女にも変化が訪れます。
時折、ふわりと微笑む様になったのです。
その様子を見て彼は嬉しくなりました。
そして、ますます香水塔を作りこんで行きます。
こうして、作品を通して彼女と会話する様に香水塔は作られていきました。
しかし、丁寧に作り込んでいたために、未完成のまま作業期限を迎えました。
彼はこの香水塔だけはどうしてもきちんと作りたいと思い、迎賓館の責任者に頼み込みます。
代金は返す。それから完成しても報酬はいらない。ただ、最後までどうしても作らせて欲しい。そのためであったら何でもすると。
無理な頼みだとは分かっていましたが、どうしても作り上げたかったのです。
「分かりました。材料費以外は必要ないのであれば構いません」
迎賓館の責任者の答えは意外なものでした。
「えっ!いいんですか?」
思わず彼は聞き返しました。
「ええ、構いません。その代わり、いいものを作って下さい」
迎賓館の責任者は、暗闇に囚われた少女が、彼の香水塔と共に光を取り戻そうとしているのを知っていたのです。
そして、自分の力の及ぶ限り、この奇跡を守りたいと思ったのでした。
なぜなら、彼もまた香水塔に、大切な人を失った心の傷を癒されていたからです。